| 横浜のこだわり8 |
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1980年代の横浜に思う。1980年代は横浜にとって、今の横浜を形成するのに充分な時代である。 私が大学を卒業したのは1984年。 当時は古き良き横浜と、新たな都市づくりの成果が見え始めたころで、1989年の横浜博覧会に向けてまた好景気の兆しの中、現在のヨコハマの形が予感できた。ただし本牧にはまだハウスがあり、みなとみらい地区には新港に赤レンガ倉庫が荒廃を極めていて、日活映画の流れがあり、石原プロがバトンタッチして横浜を表現した時代。
大学生の頃、神奈川新聞の事業部でアルバイトをしていて、昔の神奈川新聞のインクの匂いと、エレベータが今は懐かしく、夏になると「YOKOHAMA本牧JAZZ祭」に明け暮れていた。確かにバブリーな時代で、鰻のぼり。tvkの番組も実に刺激的な音楽番組が多く、横浜オリジナルの企画が立ち上がっていた。元町は雑誌「JJ」に代表されるハマトラブーム。横浜の女子大生はミハマ・フクゾー・キタムラそして松田聖子風の髪型。男子はファーラーのパンツに、俄かサーファー。雑誌はアイビーを崩したポパイ風の若者でプレッピーな自分も含めて闊歩していた。当時私は、朝はラジオ日本で番組のスクリプターで昼は山手の展覧会でぼーっとアルバイト、夜はゲーデ座で舞台の進行兼パーティ準備、週末はほとんどYC&ACでお金持ちの外国相手にパーティのディレクターをしていた。
当時は、月に50万円を稼ぎ、全部遊んでいて、親の車を平然と使い、エアーサプライの曲をかけては湘南の夜のドライブを楽しむ怠惰な生活で母親は嘆いてきたのを思い出す。 1980年代の横浜はきっと古いものが消えはじめてあたらしいものが台頭した麻薬っぽい時代で、経済力をバックに行き先を決めずに暴走した都市だったかもしれない。 2011年の今の横浜の現状は昔の遺産を食い潰すだけで、たまに1人で相澤の墓地からハウス、森林公園、山頂公園、本牧と散歩する私は1980年代を探しているようである。
(写真:「赤レンガとゆり」 Hideo Mori) |
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